「優しい記事を書く」

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略す勇気

略す勇気

「優しい記事を作ろう」
これは、僕が「見聞伝」に入ってずっと念頭に置いてきたことだ。この方針は、2007年度のゼミ長・酒井さんが言った何気ない一言に端を発している。
『東大生って、自分が世間の標準から外れた世界にいることを、ほとんど自覚していない』
駒場の駅の階段を下りながら、酒井さんがしみじみと発した言葉を、今でもはっきり覚えている。

自惚れといわれるかもしれないが、(そして、確かに少し自惚れているので批判は甘んじて受けたいが、)東京大学は、学問に関しては「優秀」な人間の集団であると思う。これは悪いことではない。そういう場所として東大があるのだから、当然のことだ。
だが、そんな僕らが、学外の(これから学問に足を踏み入れようとしている)人に何かを伝えようとするとき、僕らが普段の感覚で記事を書き、説明したのでは、到底伝わらない。
 
つまり、読み手が自分の属する集団でないというのなら、相手のいる立場を理解して、「優しい」記事を書かなければならない。サイトで発表する記事が、学内で提出する文書や授業のプレゼンテーションとは、全く別の性質を兼ね備えなければならないということを自覚すべきだ。

どこまで妥協して、わかりやすさと情報の質を両立するか。これこそが、一つのメディアの永遠の課題であり、これを追求し続けることが、各分野の最先端を言葉で伝える人間の資格でもあると思う。

だが、さらに悪いことに、僕らは、読み手を軽く見てはいけないと思って、自分の力の及ぶ限り、一生懸命に説明を繰り返して、「何がなんでも自分の思っていることを伝えよう」と奮闘してしまいがちだ。特に、学問分野を取材した記事や、自分で問題提起したプロジェクトの記事では、厳密さや正確性を追求して、網羅的な記事になる傾向がある。もちろん、同じ学問分野の人に向けた議論ではこれで一向に構わない。だが、毎日何時間も学問に時間を費やせる人間は、この世の中のほんの一部だ。広く一般に向けた記事では、場合によっては、難しくなりそうな部分を削ったり、ぼやかしたり、天下り的に説明したりして、読み手にわかりやすく伝わる文章にするよう努力すべきである。そうでなければ、「伝えるプロ」たりえない。自分の取材量や勉強量に、記事の文章量が比例する人は要注意である。

なお、これは、別に学問に限ったことではない。たとえばプロのサッカー選手がちびっこサッカー教室に招かれたら、高度なテクニックを教えてもほとんど無意味だ。誰も聞く耳を持たないで終わってしまうだろう。だから、ちゃんとした、思いやりのあるサッカー選手なら、きっと自分のレベルをかなりセーブして練習メニューを作ったり、小さい頃の自分がどういう練習をしていたかを話すなど、その場にいるみんなが楽しめるような環境を作ろうと努力するだろう。たとえそれが、自分の「優秀な」能力と全く釣り合わないレベルのものであったとしても。

早い話が、自分にうぬぼれるな、ということだ。読み手は、誰が記事を書いたかとか、そいつの能力はいかばかりか、とか、そんなことは気にしない。記事は自分の能力を評価してもらうために書くのではない。これだけ取材しました、これだけ勉強して、調べて、がんばって記事にしました、ということを主張するような記事は三流だ。

もっとも、僕もどこかでそんな記事を書いてしまっている可能性も大いにあるわけだし、そもそもこの議論に明確な答えなどない。だが心掛けは大切だと思う。

注)文中の「優秀」は、単に「得意」という意味で使った。外部からはよく「優秀」というレッテルが張られるため。

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